プロヴァンスの海と土を少し 湘南人草間文彦

ばらの騎士 新国立劇場

 5月30日のマチネ公演に行ってきました。ジョナサン・ミラー版のこのプロダクションを初めて見たのは、2007年。演出と舞台の美しさが印象に残っています。

 今回も幕が開くと、思わず「おっ!」と声を漏らしそうになるくらい美しい。この舞台作りの鍵は、1〜2幕では舞台の右に、3幕では舞台の左に、奥行きの深い廊下を作り、ここと主舞台を分けていることでしょう。これにより、歌っていない時の人物の裏での動きと心象風景がきちんと観客に伝わります。また、舞台下手が南という設定になっているようで、大きな窓から光が入ります。2007年では小雨が窓を叩くシーンがあり美しかったのですが、今回は雨はなかったようです。あるいは気づかなかったのか?そのかわり、元帥夫人のベッドの上の絵画に窓からの光がモヤモヤと映る場面があり、これは、かげろうかなと思いましたが、一緒に行った家内は「雪が降ってきたことをイメージさせているのでは?」とのこと、彼女のほうが当を得ていると思いました。いずれにしろ、大変に魅力的な舞台です。ジョナサン・ミラーは最近ではENOのマフィア版リゴレットが話題になりましたが、センセーショナルな読み替え演出から、今回のような正統派クラシックな演出まで、引き出しがたくさんある感じです。登場人物一人一人の描写力も秀でていて好きですね。

 今回は、かなり前から元帥夫人役のアンネ・シュヴァーネヴィルムスが話題になっていましたが、なるほどすごい歌唱力!そして、この役を得意としているだけあって、1幕目と3幕目での心の変わり方の表現が素晴らしい。オクタヴィアンがついに本当の恋に目覚めて、自分から去ったことを悟り、それを自分自身に言い聞かせるところ、そしてそれに続く三重唱は心に響きました。今回は久しぶりのローゼンキャヴァリエだったので、“ショルティXカナワ”、“ハイティングXカナワ”、“エッシェンバッハXフレミング”、“カラヤンXシュワルツコップ”(これが個人的ベストでしょうか、今も聴いています。)などのCDやDVDで予習をしていきましたが、ライブということもあり、アンネ・シュヴァーネヴィルムスはまったくひけを取らないどころか、一番印象的でした。!また、立ち姿も実に美しい。真夏の夜のJAZZのクリス・コナーみたいです。いや、クリス・コナーが元帥夫人のイメージを真似したのかもしれませんね。

 そして、オクタヴィアン役のステファニー・アタナソフも聴き応えありました。なんと言ってもその長身で美しい容貌は宝塚のスターのようで、一幕目の元帥夫人の部屋の遅い朝のシーンは、なまめかしく中性的で蠱惑的、シュトラウスの音楽そのものという感じでした。ちょっと鼻にかかるメゾですが、ロシアっぽさはなく(今回プログラムを買い損ねてしまい、来歴がわかりません)、まさしく、シェーンベルグ宮殿あたりにいる若い貴族という感じ。

 この二人は2007年のニールント、ツィトコーワよりもワンランク上(この二人もとても良かったですが)と思いました。今回は、総じて他の歌手も素晴らしく、警部に妻屋秀和さん、この日は健康上の理由で降板しましたが、ヴァルツァッキの高橋淳さんと日本人も豪華です。この演目、一幕目の花、”テノール歌手“としての地位を築いたかに思われる水口聡さん、Bravo!としかいいようがないです。出て来て、いきなり、100%出力で「厳しさに胸を装って」を歌うのですが、シュトラウスは、この歌手のイメージをカルーソーに置いたというだけあり、かなり難しく、失敗が絶対に許されないところです。水口さん、歌もですが、体格もけっこう貫禄になってきました。

 3幕目の三重唱は、まさしく至福の時でした。3幕目後半、台本としては増長になってしまい、歌が良くないと退屈になるのですが、全くそんなことはなく、若い二人を後押しする元帥夫人に思わず胸が熱くなりました。

 今回、理解出来なかったのは指揮です。シュテファン・ショルテス、大変な経歴と現在でも第一戦でシュトラウスのスペシャリストとして活躍していると言うののですが、序奏の最初のホルンから仰天というか落胆。ばらの騎士の序奏はさきほど書いた「予習用CD」のどの指揮者も、聴く者に魔法をかけるような、退廃的な美しさと、水晶柱の輝きのような音を出し、キラキラ感に溢れるのですが、ショルテスの序奏は、ばらばら感に溢れて、まったくシュトラウスの特徴が出ていませんでした。知人からはホルンが8本になっていたのではという指摘もありました。ピットはぎゅうぎゅう詰めだったので、そうかもしれません。しかし、そうだとしても問題は違うところにあると思います。帰りがけの観客の中にも「序曲おかしくなかった?」という声あり。僕のFBにも同様の声ありで、これはショルテスが意図的にそういう響きにしたのだと思います。ジュリーニのトラヴィアータの序曲が「止まっているようだ」と言う人もいるのですから(僕は一番好きなトラヴィアータですが)、こういう指揮もありなのだと思います。カーテンコールでのマエストロに対する拍手も多かったです。でも、僕はこの序奏のせいで、一幕目の複雑な気持ちの元帥夫人とお気楽なオクタヴィアンの二重唱などが楽しめませんでした。それと、この日の観客、拍手が早い。まだ最後の音がなっているところでフライングです。先日のトラヴィアータでは、終わってから更に一拍おいて怒濤のような拍手で、見事だったのですがどうしてでしょうね。

 で、この指揮になじめない状況は2幕目でワルツに入るところまで続きます。まったく“溜め”がなく、スカッとワルツにはいってしまいます。このオペラに限らず、シュトラウスの響きは、ワーグナーの影響は受けていますが、もっと絵画的な、、、具体的に言えば(個人的趣味もありますが)クリムトの絵のような退廃的で、金泊を使った表現のようなものがあると、いつも思います。しかし、その“クリムト感”がやってきたのは、ようやく最後の三重唱でした。初日にも来た知人は「初日よりだいぶ良くなった。」とのこと。やはり、これは新しいシュトラウスの解釈の仕方なんだろうと思います。東フィルの力不足は考えられませんし。ただ、3幕目の3重唱のあたりでは、そういうことが気にならないようになってきました。こちらが慣れたのか、あるいは指揮とオケの合体が上手く行きだしたのか….

 思い出せば、2007年のペーター・シュナイダーの指揮は、とても重かったです。重すぎたと思いました。しかし、クリムトは序曲から降臨してくれました。今回は、どちらかと言うと“カンディンスキー”が降臨した感じ。

 こういう場合は、本当はもう一回聴きに行くのがいいのでしょうね。でも来週からまた海外なので(オペラ不毛のラスベガス)、ちょっと無理そうです。

 とは言え、飯守さんが芸術監督になってから、新国立の全体のクォリティはとてもアップしたと思います。今回、思ったのは、「この“ばらの騎士”を飯守さんが振ってくれていたらなぁ…」という事です。僕は彼のシュトラウスは、ナクソス島しか聴いていませんが、軽妙で洒落ていて、しかし音のひとつひとつが輝いていて素晴らしかったです。まあ、来シーズンの“ラインの黄金”を楽しみにしましょう。

ばらの騎士
指揮:シュテファン・ショルテス
演出:ジョナサン・ミラー
美術・衣裳:イザベラ・バイウォーター
照明:磯野 睦

元帥夫人:アンネ・シュヴァーネヴィルムス
オックス男爵:ユルゲン・リン
オクタヴィアン:ステファニー・アタナソフ
ファーニナル:クレメンス・ウンターライナー
ゾフィー:アンケ・ブリーゲル
マリアンネ:田中三佐代
ヴァルツァッキ:高橋 淳
アンニーナ:加納悦子
警部:妻屋秀和
元帥夫人の執事:大野光彦
ファーニナル家の執事:村上公太
公証人:晴 雅彦
料理屋の主人:加茂下 稔
テノール歌手:水口 聡
帽子屋:佐藤路子
動物商:土崎 譲

 
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ドーヴィルへの旅

 5月の連休後のフランス行きは短い旅行でしたが、フランスのバレエ、オペラ、そして映画という芸術にたっぷり浸ることができました。映画は見てない? そう、見ていないです。でも、フランソワーズ・トリュフォーのお墓参りをして、そして念願だったブルゴーニュ地方、ドーヴァー海峡に面した保養地、ドーヴィルに日帰り旅行に行くことができました。何で、ドーヴィルかと言うと、ここは、1966年のカンヌ映画祭でグランプリを取った(この頃は”パルム・ドゥール“はなかったので、グランプリがトップでした。)、クロード・ルルーシュ監督の「男と女」の撮影の舞台になったところなんです。

 僕が、「男と女」フリークであることは、たしかこのブログのどこかでも書いたことがあると思います。1966年というのは、僕にとってはエポックメイキングな年でした。まずは、ビートルズが来日したこと。この衝撃は何年か後に、僕自身を英国に留学する発端になりました。親にはそうは言いませんでしたが、
”The long and winding road”というのはどんな道だろう、というのが留学の理由だったんですよね。そして、この「男と女」の主題歌、フランシス・レイの「ダバダバダ、ダバダバダ」という曲がヒット。そして、同じボサノバのグループ”セルジオ・メンデスとブラジル‘66“の「マシュケナダ」大ヒット。ボサノバも以来50年間のフリーク状態です。

 「男と女」は、内容を色々と評論するような映画ではありません。ただ、ただ、美しく、アンニュイで、でも、一生のうちに一回くらいこういう事に出会う人が3人に一人くらいいるんじゃないかと思うような映画です。とは言え、ちょっとエピソード的なことを書くとすれば、この映画はもともと、自動車会社のフォードがルルーシュにコマーシャルフィルムとして依頼したもの。それが、ルルーシュの熱意で長編映画になったのです。とは言え、予算は限られていたので、フィルムは半分が白黒で、これで現在のストーリー展開部分を映します。そして、カラーフィルムを奢っているのは、ほとんどが過去の想い出の部分。想い出が輝いている、”女“の心を良く表しています。スタントマンもあまり雇えないので、運転の腕に自信のあった”男”のジャン・ルイ・トランティニアンがフォードの協力を得て、実際にモンテカルロ・ラリーに参戦しています。”男“の映画での役名は、ジャン・ルイ・デュロックで、”女”のアヌーク・エーメの役名の”アンヌ・ゴーチェ“よりも実名に近く、ほとんど本人が素のままで出ているということです。

 二人が出会ったのが、ドーヴィル。幼い子供達が全寮制の学校に入っていて、彼等に会いに来るというのが発端です。そして、二人がうまく行くかなぁというところになるのもドーヴィルのホテルのレストラン。しかし、アンヌの亡くなった夫の影が彼女を引っ張り、二人は別々にパリに。アンヌは乗り換えの鈍行電車で、ジャンは、ラリー仕様のムスタングハードトップの1964 1/2モデル。当然、ジャンの方が先に着き、パリのサンラザール駅でアンヌを迎えところで映画は終わりになります。

 今回の旅行、スケジュールがタイトだったので、ドーヴィルまで行くつもりはなかったのですが、サン・ラザールの駅まで行ってみたら、映画の時そのまんまのホームがありました。これで、どうしても行きたくなり、翌日一番の7:45の電車を席を取りました。もちろん帰りは、アンヌと同じように、途中駅“リジュー”で乗り換えの列車を選びました。

 どうぞ、あとは下の写真と映画を見てください。とりあえずはDVDで。そのうち飯田橋のギンレイホールでやると思いますので、その時はお知らせ致します。

th-th-DSC01181.jpgサンラザール駅のホーム、昔のまんま。ここにドーヴィルから帰ってきたアンヌが降り立ち、ジャンと再会します。
th-th-DSC01227.jpg木製の埠頭。モンテカルロから夜を徹して走ってきたジャンが、ここからアンヌと子供達を探します。
th-th-DSC01217.jpg映画でいつも映っていた埠頭の先端。20年後に封切られた”男と女Ⅱ”のラストシーンがここで撮影されました。
th-th-DSC01210.jpgこれも映画に出ていたドーヴィルならではのビーチの木道
th-th-DSC01183.jpgドーヴィルへの列車。運良く、かなり古い車両が来ました。おそらく60年代にも使われていたと思います。



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東フィル定期シリーズ、バッティストーニ指揮「コリントの包囲」他

 今回の、バッティストーニ来日の最後の公演になる、東フィルのオペラシティ定期シリーズ94回に行ってきました。

会場に早く行ったので、地下のセガフレードにコーヒーを飲みにいったら、なんとマエストロが!しばしお話させて頂く機会を得ました。彼は英語もとても堪能です。公演開始まであと1時間なのですが、リラックスした様子で、「グレート・コンサートになるよ!」とアピール!いつもながら、とても落ち着いた様子で、人の目をしっかり見て話をします。

この日の演目は次の通り。

□ ロッシーニ/歌劇『コリントの包囲』序曲

□ ヴェルディ/歌劇『シチリア島の夕べの祈り』より舞曲

□ プッチーニ/交響的前奏曲

□ レスピーギ/組曲『シバの女王ベルキス』

彼が『シバの女王ベルキス』について語る様子が、東フィルのウェブサイト『シバの女王ベルキス』にアップされています。

 このレスピーギ、素晴らしかったです。ソロモン王の夢、戦いの踊り、夜明けのベルキスの舞い、饗宴の踊りと個性的かつエスニックな響きのバレエ曲が並んでいますが、まずはフルート、クラリネットが大活躍。そしてチェロの独奏が空気を切り裂きます。バンダは2階の左客席から蠱惑的な響きを流し、打楽器は、Jazzのパーカッションのように、自由に(実際には自由ではないでしょうが)に響き渡ります。”チュニジアの夜“?。

 ヴェルディの舞曲も、会場全体にシンデレラの魔法がかかったように、客席間をダンサーが踊っていくような錯覚を覚えます。そして、初めて聴くプッチーニ24歳の時の作品の美しいこと。これを聴くと彼がいかにワーグナーに傾倒していたかがわかりますし、バッティストーニもいつの日かワーグナーを振ることが、(トリスタンとか)あるような気さえしてしまいます。

 東フィルは本当に良い指揮者を得たものです。そして、今年は、CNN iReportで、「世界で最も優れたオーケストラ TOP10」に選ばれた実力も素晴らしい。

 それにしても、彼が二期会でナブッコを振った2012年2月のきっかけは、元々ピットで東フィルを振る予定だった、メキシコの女性指揮者、アロンドラ・デ・ラ・バーラが、妊娠のために来日できなくなり、急遽代役だったのですから、全く「災い転じて福と成す」ですね。彼女が来ていたら、バッティと東フィルの蜜月も始まらなかったでしょう。

 9月には、再来日し、ムソルグスキー、ラフマニノフなどを聴かせてくれます。また来年早々には、”イル・トロヴァトーレ“を二期会で振ることもも決定。本当に楽しみです。

椿姫 2回目観劇

 5月19日の夜の部、新国立劇場の“椿姫に行ってきました。先週13日に続いての2回目の観劇。前回、ブログにも書いたように、指揮、歌手、演出ともに、素晴らしかったのでもう一度行ったような訳です。しかし、その中では、前回アルフレードのアントニオ・ポーリが今ひとつだったのが気になっていました。
ローマ歌劇場来日の時のナブッコのイズマエーレ、スカラ座来日でのファルスタッフでのフェントンで、甘いイタリアンボイスを聴かせてくれただけに、今ひとつ納得が行きませんでした。13日は、1幕2場の最初の、” lunge da lei per me non v'ha diletto”のところで、声がつぶれてしまったのです。で、その後、どうもやる気が失せてしまった感じがありましたが、19日では、安全運転で入り、その後のカバレッタ、”o mio rimoroso”で素晴らしい声を聴かせました。彼のアルフレードは、肩に力が入らず、純真で、真面目で、世間知らずな優しい男を完璧に表現しています。この、カットされることも多い、”o mio rimoroso(私の後悔)”のところで、思わずグッと来てしまいました。アルフレードでこんなに心が揺らぐのは初めてです。前回は1幕2場以降、ヴィオレッタに引けを取っていたのが、この日は二人とも凄い!ヴェルディの楽譜をなぞるように、きちんと唄って行くのですが、トスカニーニの指揮のように、その正確さは、音楽の美しさをそのまま僕達にダイレクトに伝えます。プッチーニと比べてはいけないかもしれませんが、前日のトゥーランドッとでカルーソーが声を持ち上げている感じがありましたが、椿姫の二人は、この日、音程は歌い出しから"バチン”と正確。当たり前のことかもしれませんが、こういう正統派の椿姫が聴きたかったんです。

 ヴェルディのテノール役は、あまり感情移入できないタイプが多いですが、このアルフレードもどちらかというと、「馬鹿な男」というイメージになってしまうことが多く、マントヴァ公ほどではないですが、自分自身に投影できない男という感じがしていました。特に"o mio rimoroso"のところは、「パリに金返しに行くゾー」という感じで、勇んで唄う歌手が多く(ゲオルギュー、ショルティ版のフランク・ロパードなど)、それを聴くと「今迄なんで、その暮らしに金がかかることをわからなかったのか?」と言う、アルフレードに対するネガティブな感覚が生まれてしまうのです。しかも、そのカバレッタをハイCで終わらせたりすると、全く馬鹿丸出し。

 ところが、昨日のポーリは、実に自然に歌いました。その態度は、「なんで、気づかなかったんだ」という"rimoroso"が悲しく表現されます。アルフレードの悲しみがさざ波のように伝わってくるんです。もちろん、終わりは普通のC。このように歌われると、聴いている僕の心もアルフレードに寄り添います。本当にこのカバレッタを聴けて良かったです。

 前回は3階の席で、あまり気づかなかった大きな鏡が、今回は2階に座ると非常に良く見えます。あれは何を意味しているのか、デッカー演出の時の時計とグランヴィル医師のように、ヴィオレッタの将来を映し出していたのでしょうか?その意味を探らなくても、視覚的に舞台が広く見えて、大変効果的だったと思います。

 そして、第三幕の”パリを離れて“の熱唱の後に、” Prendi, quest' e l'immagine”(私の肖像画を受け取って)で始まる、葬送の響きと、紗幕中でピアノの向こうに遠ざかっていくアルフレード、ジェルモン、グランヴィル、アンニーナ。この演出は、間違い無く、既にヴィオレッタは亡くなっていることを表しているのだと思いました。そして、ヴィオレッタ(マルグリッド)とアルフレード(アルマン)との距離は、まさしくモンマルトル墓地の二人のお墓の距離、、、正確に言えば15地区と21地区なんですが、、、この距離に等しいと思いました。そうすると、やはり、彼等とヴィオレッタを隔てているピアノはフランツ・リストなのか?

 お墓参りに行ったばかりのせいで、アルフォンシーヌ・プレシの亡霊に取り憑かれているかもしれませんが、この演出大好きです。こうなると、最終日も行きたくなりますね。今回で、トラヴィアータ観劇19回目、20回目もこの素晴らしい公演で聴けるかなぁ。

YouTubeにアップされていた、珍しいフローレスの"o mio rimoroso"です。

 

 

 

トゥーランドット バッティストーニ @ サントリーホール

「いや、凄かった!」の一言でブログが終わりそうです。そもそも、プッチーニというのは、それなりの指揮者が振れば、どの曲もそれは美しいメロディーを持っているんですし、ましてバッティストー二が振ったのですから。

 ともあれ、バッティがトゥーランドットを振るというのを聞いて、期待せずにはいられませんでした。個人的には、2001年に僕が生まれて初めて聴いたオペラが、フィレンツェ歌劇場のトゥーランドットだったということもありますし、プッチーニのオペラの中では、「妖艶」という形容詞が付けられる魅力的な演目ということもあります。そして、バッティストーニが振るヴェルディ以外のオペラを初めて聴くというのも楽しみでした。

 この日の僕と家内の席は、なんと1列目の左端。指揮者の様子が良く見えます。前日のオーチャードでの公演を聴いた知人からは「シートベルトがいるぞ」と言われていましたが、あながち冗談ではなかった感じです。

 序曲とともに赤い照明が暗闇を裂き、ただの演奏会形式でないことがわかります。照明以外の演出的要素としては、中国の首切り役人が、上半身裸のダンサー(多分)が出て来たりしましたが、歌手自体はモーニングとドレスでした。それでも、紫禁城での1998年ズービン・メータ指揮のフィレンツェ歌劇場の公演と同じような迫力がサントリー・ホール全体を包みます。照明の色はそのうちに青く。。。バッティの指揮が色彩をコントロールしているかのようです。

 序曲の“鳴り”からして違うのです。彼の指揮は、すべての楽器をまとめて一つの壮大な音を作るというのではなく、楽器毎の音を引っ張り出し、引っ込めて、音の放物線がオーケストラの上を行き交うような立体的な音です。今回もそれは変わらず、鳴らすときの凄さと言ったら、ロックコンサート(家内談)のような感じでしたが、2012年のナブッコ、翌年のローマ三部作、それに続く毎年のバッティストーニの指揮をずっと聴いてきて、彼はどんどん進化していると思います。2013年に個人的にベストの公演だと思ったローマ三部作は、いつも言うようにミケランジェロの彫刻のように迷いのない切り立った崖のような音を聞かせてくれました。とにかく”鳴らし方“が凄かった。それは今でも変わりませんが、今年のリゴレット、チャイコフスキー交響曲5番、そしてこの日のトゥーラン・ドットでは、鳴らさないところでの表現力、音と音の間の表現力が非常に豊かになっていると感じました。あー、語彙が少ないなぁ。

 ヴェルディほど多くプッチーニは聴いていませんが、この日の公演は、それまでの"トゥーランドット"の概念を変えるほどのインパクトのあるものでした。彼は、このオペラの甘い部分を、まるで溶かした媚薬のように客席に流して行きます。それだけに、リューが死んだ後、つまりプッチーニが死んだ後の、アルファーノの作曲部分がいつになく完成度が低く感じました。もしプッチーニが生きていたら、最後にトゥーランドットのアリアかロマンツァが入ったのではないか、、などと考えました。

 バッティの指揮は、プッチーニの音楽が現代の映画音楽につながっていることも強く感じさせました。公演後に家内と話すと、彼女は「南太平洋」を、僕は「ロード・オブ・ザ・リング」を挙げましたが、たしかにつながっていますね。「バリハイ」などはメロディもにていますね。


 歌手陣では、なんと言ってもリューを唄った、浜田理恵さんが素晴らしかった。ピアニシモでスーッと伸びる、リューの魂が乗り移ったような声でした。昨年の芸術劇場の「ドン・カルロス(5幕フランス語版)」でのエリザベートでも素晴らしかった!フランス中心に活動しているようですが、日本でももっと唄って欲しいですね。

 前日、評判の良かった、カラフのカルロ・ヴェントレは前半やや疲れ気味の感じがあり、声量に乏しく、”リリコ・スピント“と言われる感じがわからなかったのですが、後半は素晴らしくなりました。イタリア人らしく、拍手が多くなるとどんどん良くなる感じですね。” nessun dorma”堪能しました。

 タイトルロールのティツィアナ・カルーソーは、容姿も声もまさしく美しいトゥーラン・ドット。前半はやはり疲れが出たのか、高音を「よいしょ」と持ち上げている感じがありましたが、後半の休憩後は全くそのような問題は解消でした。

歌手陣は他の日本人も素晴らしかったです。しかし、先週の新国立の”トラヴィアータ“やその前の”運命の力”、そしてこのトゥーランドット、またパリでのガッティの指揮の“マクベス”を聴いて感じたのは、オペラはやっぱり指揮者が良ければ、歌手に多少の問題があっても満足できる、ということです。逆はありません。指揮者が悪くて、歌手が良くても満足は出来ません。

 バッティストーニの”騒ぎ“とも言える人気を、苦々しく思っている方もいらっしゃるかと思います。まだ若干27歳。やたら鳴らす、というイメージがありますから。でも、是非、一度聴いてみてください。僕なんか、60歳を過ぎて、自分の大学院の生徒と同じような齢の”天才!”指揮者と出会えたことは、実にラッキーだと思っています。

 さて、今日はこれから、新国立”トラヴィアータ”2回目です。今週はまだあります。忙しい!



椿姫 新制作 新国立劇場

 5月13日水曜日のマチネの公演に行ってきました。平日というのに、ほぼ満席。「椿姫」という演目の日本での人気は高いのだなぁと、改めて認識。また、今回のプロダクションが非常に好評であることも客足を増す要因になっているのでしょう。

 僕自身も、椿姫の観劇回数は他の演目を大きく引き離してます。そんなこともあって、トラヴィアータ・イヤーと言われるくらい上演の多い今年、初めてパリのモンマルトル墓地にある、椿姫=ヴィオレッタのモデルとなった実在の女性”アルフォンシーヌ・プレシ“のお墓参りに行ってきました。それが、つい先週の木曜日のことでしたが、昨日の新国立で、イヴ・アベルの指揮で序曲が始まると、舞台の紗幕にそのお墓の墓碑が投影されるではありませんか?あまりのタイミングの良さにびっくりするとともに、お墓で色々と考えたことや感じたことを思い出して、もう涙ぐんでしまいました。いやはや…..

 新国立劇場のプログラムでは、“マリー・デュプレシ“がヴィオレッタのモデルの本名となっていますが、これは彼女が自分で”商売(クルティザンヌ=高級娼婦)のために選び、1840年頃から使い始めた名前であって、墓碑には本名の“アルフォンシーヌ・プレシ”という名だけが刻まれており、舞台の字幕にもそのように出て来ます。1824年1月15日生、1847年2月3日没。24歳の短い生涯でした。

 紗幕には墓碑の後に、今も残る彼女の肖像画が現れます。今回タイトルロールを歌った、ベルナルダ・ポプロはスロベニアの若手ソプラノ。当初はラナ・コスがキャストされていたのが彼女に代わったようですが、2011年か12年のROH(ロイヤルオペラハウス:ロンドン)のトラヴィアータで、降板したエルモネラ・ヤオの代わりに、ヴィトリオ・グリゴーロと舞台に上がり、大好評を得たそうです。その古風で美しい顔立ちは、コメディーフランセーズに残る、マリー・デュプレシに良く似ており、舞台では髪を真ん中で分けていたので、余計に「過去の実在の女性」という印象が強くなりました。
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【モンマルトル墓地のアルフォンシーヌ・プレシの墓。横の墓碑が序曲とともに紗幕いっぱいに投影された。】

 このポプロ、本当に素晴らしかったです。声質としては軽いほうでは無いと思いますが、とても清らかなピアニシモが印象的です。ピアニシモでも、ただ音が小さいだけではなく、その中に表情がある。1幕2場でヴィオレッタが、ジェルモンに向かって”morro”(私は死にます。)と叫びます。ここは、歌手によって机を叩いたり、崩れ落ちたりする“演技”の場面ですが、ポプロは、自然に振る舞い、その後に続く“la mia memoria, non fia ch’ei maledica”(私の思い出を彼が悪く言いませんように)の部分を、細い細いピアニシモで美しく糸のように歌うのです。これには参りました。ポプロのヴィオレッタは、終始か弱く、時には可愛いらしいのですが、実際良く見ていると、名誉ある強い女性の面もきちんと演出で打ち出しています。この1幕2場もそうですし、2幕でアルフレードが札束を投げつけるシーンでも、倒れ込むことなく、スッと踵を返して階段を上ってサロンから去って行く。そしてその後に、”Alfredo, Alfledo, du qyesto core, Non puoi comprendare tutto l’amore”(アルフレード、アルフレード、この心のすべての愛情を貴方は解らないのね。)と、またまたそれは美しいピアニシモで歌うんですね。ほとんど他の演出では、この部分はヴィオレッタがアルフレードに懇願するようになります。ヴィオレッタが札束まみれで歌うケースもありますから。哀れなヴィオレッタがクローズアップされるのところなのです。しかし、今回の演出では札束にまみれているのはアルフレードで、ヴィオレッタはそれを高い位置から見下げて悲しむのです。いや、格好いいではありませんか!

 3幕目のヴィオレッタの最期でも彼女は(後で述べますが、これは既に死後の幻想になっていると思います。)、倒れることなく右手を高く、自由の女神のように挙げ、独立した女性であることを示していると、僕は感じました。

 このフランス人のヴァンサン・ブサールの演出は実に素晴らしかったです。序曲に紗幕に墓碑を投影したのですが、3幕目の途中からヴィオレッタだけが紗幕の前に出て、アルフレード、ジェルモン、アンニーナ、グランヴィルは紗幕(お墓をシンボライズしていると思います。)の向こうに立ち、その位置も終わりに近づくにしたがって段々遠く霞んで行きます。これは、明らかに既に3幕ではヴィオレッタは亡くなってしまっていて、駆けつけたジェルモン親子は、ヴィオレッタの最後のかなわなかった願いが、幻想か蜃気楼のように立ち昇っていると言う表現をしたのだと思いました。だからこそ、ヴィオレッタは2度は死ななかったのです。このような演出は初めてではありませんが、ブサールのそれは、決して観客に彼の思いを押しつけることなく、「そのように見てくれてもいいですよ」という優しさがありました。

 プレシのお墓を訪れた時に、ガイドブックなどでは「すぐそばには、愛人で“椿姫”の作者であるデュマ・フィスの墓もあり」と書かれていることがありますが、実際には100m以上離れています。その差は、まさしくプレシとの距離を表していると思いました。デュマ・フィスはアルフレード(小説では“アルマン”)のモデルであり、自身でその体験を小説にしましたが、プレシ(トラヴィアータの小説では、“マルグリット・ゴーチェ”)を本当に愛し続けて、最後まで看取ったわけではないのです。プレシは、庇護者であったペレゴー伯爵と、当時としては考えられない「階級の差」結婚を1846年にしています。ですので、死後もモンマルトルの墓地に入れたのです。高級娼婦で墓地に入れるということは、その当時はなかったと聞きます。また、プレシは、ピアニストとしても名高かった、音楽家フランツ・リストとも深い付き合いがありました。これがプレシの本当の恋だったようです。1幕2場から舞台上に出て、カードのテーブルになったり、ベッドになったり、墓標のように見えるピアノは、おそらくは、プレシが実際の生涯で唯一人本当に愛したフランツ・リストを表しているのだろうと、僕のオペラの師や先輩は言っていました。そう思います。いくつかの書簡がそれを証明しています。しかし、リストの墓はモンマルトルから遠くバイロイトにあります。プレシは今もこれからも一人で眠っていくのだなぁ、、、そんなことを、先週僕はお墓の前で考えていました。

 ですので、余計、この演出は胸にこたえました。パリの光は青いのです。写真を取るとわかりますが、夕刻以降のパリは、実際には汚く見えても写真に取ると青い美しい光に包まれています。ブサールの舞台も青が基調でした。

パリ青
【本当は汚いパリのポートロワイヤルの地下鉄駅も写真に撮ると、青の光で美しく見えます。一切レンズやデジタル加工なし。馬鹿チョンカメラの映像そのまま。】


 そして、指揮のイヴ・アベル、今迄に聴いたトラヴィアータでも最高のひとつに入ると思います。生では聴いていませんが、ジュリーニの4分の長い序曲のスカラ座の1955年版、2007年当時チューリッヒ国立劇場の音楽監督であったウェルザー・メストの指揮、そして、今回のイヴ・アベルの指揮、と言ったら褒めすぎでしょうか?

 とにかく洒落ているのです。「洒落ている」といういうと、安っぽい感じがしますが、洗練されている。。要所要所でピチカートや金管、木管を浮き出すように使い、テンポも歌手の先を行ったり、少し遅れたり、全く同時に音を上げてユニゾンのようにしたり、実に美しい音楽を織りなしていました。僕は、この指揮者初めて聴きますが、良く知る人には高い評価を受けているのですね。納得です。

 アルフレードを歌ったアントニオ・ポーリ、イタリアの若手で今人気が高まっています。輝く高音で歌った2幕目のアリア“燃える心”そして続いての、良く省略されるカヴァレッタ“心が痛む(Oh, mio rimoroso)”は最後を下げましたが、素晴らしかった。3幕目の”パリを離れて”も胸に来るものがありました。しかし、ところどころで、あきらかに気が抜けた声が出てくるのです。1幕2場の最初の“Lunge da le per me”もそうでしたし、2幕のヴィオレッタとの重唱のところも、ポプロに差をつけられていました。声の切り替えがうまく行っていなかったのか….ここらへんはもう一度聴きたいと思います。

 ジェルモンのアルフレード・ダサ、声量はたっぷりあり(あり過ぎる?)演技も上手ですし、前回の藤原でも省略されてしまった、“プロヴァンス”のあとのカヴァレッタを歌い、親ばかさ加減を露呈したところも、3幕に遅れて駆けつける事と一貫性があり良いと思います。しかし、これは演出上のこと。声は、いかにもバス・バリトンっぽ過ぎるのです。僕は、個人的には、ヴェルディの作品の中でも、トラヴィアータのジェルモンはハイ・バリトンが好きなので、今回はむしろ、ドルフォール男爵を歌った藤原の須藤慎吾さんのほうが、ジェルモンでは素晴らしい歌唱を何度も披露しているのを聴いていたので、代わってもらったほうが良かった感じでした。

 あとは、残念だったのは、2幕目のフローラです。先月の藤原の公演の時もちょっと書きましたが、トラヴィアータでのフローラは、エヴォリ公女まで行かないにしても、マッダレーナくらいの重要度はある役だと思っています。1幕目でアルフレードとヴィオレッタが会う夜会、そして両者が別れる夜会はとても重要です。両方の夜会とも、ホステス役のヴィオレッタとフローラは同じように歌い出して始まります。この夜会でフローラがヴィオレッタに負けずに、ビシッとしてくれないと、2つの夜会が、ロード・オブ・ザ・リングではありませんが、”Two Towers”としてそびえ立たないのです。今回の山下牧子さん、経験豊富なはずですが、ちょっと不調だったのかなぁ、思います。

 しかし、その2点を除けば、指揮、歌手、演出がそろった素晴らしい公演だと思いました。帰宅して、早速来週火曜日のシートを取りました。もう一回ゆっくりと聴こうと思います。

僕
【プレシのお墓の前で神妙な顔の筆者】

フィス
【100メートル以上離れたところにあるデュマ・フィスの墓。ちなみにジェルモンのモデルとなった(?)父デュマ、アレクサンドル・デュマの墓も翌日行きました。パリのパンテオンの地下霊廟にヴィクトル・ユゴーと並んでいました。】








"マノン” オーレリ・デュポン引退公演 @ ガルニエ

今年1月に42歳になった、オペラ座のエトワール、オーレリ・デュポンの引退公演に行ってきました。かなり前から、いつが彼女の引退公演になるのか?演目は?相手役は?と騒がれていましたが、その演目が彼女がほとんど演じたことのない「マノン」になったことにまずびっくり、相手役が初めは同じオペラ座のエトワールのエルヴェ・モローのはずが、彼の怪我で、ABTからロベルト・ボッレを招聘したのに又びっくり。デュポンの狂信的なファンと自認する僕としては、やはりモローとの「椿姫」、あるいは「ル・パルク」を全幕でやって引退というのが理想でした。最後にボロボロになって終わるマノンを何故?というのもありましたし、骨太のデュポンを“沼地のパドドゥ”で投げて受け止められるためなのか、ボッレを招聘するというのも、なんだか納得できませんでした。やはり最後はオペラ座のエトワールと一緒に踊ってほしい。(しかし、似合う相手がいないのも確か。ルグリが去ってからのデュポンは相手探しをずっとしてみたいな感じです)

 そんなこともあって、引退公演にわざわざパリまで行こうかどうか迷っていたわけですが、3月のボッレとザハロワが来日しての「ジゼル」で彼がとても良かったことと、そして結局は、なんとか引退公演のチケットが取れることがわかりパリ行きを決心しました。トラヴィアータの1幕2場のアルフレードのカバレッタ、”Oh mio rimorso”でパリに急ぐ気分です。こちらは「後悔しないように」という目的ですが。とにかく、このチケットはバレエとしてはすごいプレミアムで、オペラ座は補助椅子も総動員しての超満員状態でした。

 幕が上がって、ボッレが登場。ひときわ大きいダンサーです。そしてデュポンが登場。ところが「えっ!どうしたの?」というほど痩せています。一見して、ジルベールが出て来たのかと思い、目を凝らしてしまいました。昨年、日本での勅使河原三郎との「睡眠」の公演を見に行った時よりも3割くらい小さくなった感じ。しかし、踊り出すと、体のバネは以前にも増して強く、スピードは速くなっています。背中には筋肉が浮き出しています。ああ、これはマノンを踊るために体を削いだのだなぁと思い、もうここで涙が出そうです。この役を得意としたフェッリ、ヴィシニョーワ、コジョカルなど、皆とても小柄です。これは最後の超人的な技巧を要する、“沼地のパドドゥ”で体操の床運動のように、体を回転させながらパートナーに飛び込んでいくところが何度もあり、重いダンサーでは男性が綺麗に受け止められないからだと思います。

 今迄、デュポンにはこの役はできないだろう、という暗黙の了解のようなものがあったかと思います。マノンで最高の男性のダンサーだったマラーホフあたりなら、つぶされてしまったかも。。。でもデュポンは、この公演にかけた執念を感じさせるような体形になっていました。

 この日の舞台で、デュポンは今迄見た中でも最高の演技、最高の表現、最高のバレエへの愛情がこもったダンスを見せてくれました。彼女の踊りは、舞台上の空気を切り裂くように進んで行きます。「羽根のように軽く」ではなく「ギリシャ彫刻のような存在感」を持っています。彼女の踊りは、セザンヌのリンゴが果物ではなくて「存在」そのものであるように、バレエではなくて「存在」だと思います。ルグリと何度も踊っているキリアンの「扉は必ず」はまさしく、彼女の「存在」の力を示していました。

 幕が進に連れ、デュポンとボッレの動きはまさに隙も無いようにシンクロし、二人はマノンとデグリューそのものになっていました。そして沼地のパドドゥが終わったあとのデュポンとボッレはしばらく、ストーリーの中からパリのオペラ座の舞台上に戻って来れないような固い表情で手を取ってお辞儀をしました。マラーホフとヴィシニョーワのパドドゥと違い、とても「高貴で優雅」な最期を迎えました。これこそデュポンのマノンですね。会場はスタンディングオベーション。助手席の人は膝がのばせないのでつま先だって立っています。怒濤の嵐のような歓声と拍手。立ち去らない観客。ようやく笑顔に戻った二人がカーテンコールに何度も何度も応えます。そしてボッレは後ろにさがって、デュポンを押し出すようにすると、彼女はオペラ座の隅から隅まで視線をやり、手を広げて挨拶をします。会場が明るくなっても続くカーテンコール。

 実際には、まだ8月の世界バレエでも踊るでしょうし、今日が最後の見納めではないと思います。しかし、ガルニエではおそらくこれが最後。デュポンはルグリやギエムのように他のところで踊らずに、オペラ座で後進の指導にあたることを表明しています。ひとつの大きなバレエの時代が終わったと言う感じです。後々に、僕は “I was there…”と言えるでしょう。さようならオーレリ!

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カーテンコールに応えるデュポン、この写真からもいかに彼女が体を絞ったか解るでしょう。

th-IMG_1518.jpg終演後の輝くオペラ座


マクベス @ シャンゼリゼ劇場

 ゴールデンウィークの連休直後から、4泊5日という窮屈なスケジュールでパリに行ってきました。大きな目的は、オペラ座のエトワール、オーレリ・デュポンの引退公演を見ることですが、ちょうどその前日に、シャンゼリゼ劇場でヴェルディの“マクベス”を上演するということでチケットを取りました。気づいたのが遅くて、あまり良い席は取れませんでしたが、最前列の一番左ということで、臨場感溢れた舞台が見られました。ただ、ちょうどオケボックスはフレンチホルンのところで、音響は今ひとつ。

 今回のキャストは次の通り

Daniele Gatti direction
Mario Martone mise en scène, scénographie
Ursula Patzak costumes
Raffaella Giordano chorégraphie
Pasquale Mari lumières

Roberto Frontali Macbeth
Susanna Branchini Lady Macbeth
Andrea Mastroni Banquo
Jean-François Borras Macduff
Sophie Pondjiclis La dame d’honneur de Lady Macbeth
Jérémy Duffau Malcolm

Orchestre National de France
Chœur de Radio France direction Stéphane Petitjean

 指揮のガッティとタイトルロールのフロンターリ以外は知らない人ばかり。しかし、イタリア系、フランス系の歌手を集めています。しかし、正直なところ、最近やや重たい感じのガッティと、今迄にジェルモン、スタンカー、スカルピアなどなど、何回も聴いているのに、何故か印象が薄いフロンターリということで、今回は、期待しすぎないようにして行きました。


 ところがです。結果を先に言うと、とても素晴らしい公演! なにより、タイトルロールのフロンターリのが、「鬼気迫る」という単純な表現を超えて、深い苦悩と被害妄想的な(彼は“加害者”には間違いないのですが)苦しみにさいなまれる感情の描き方が素晴らしいです。歌唱の表現力に演技が伴い、フロンターリはまさに悩める“悲しい”マクベスになりきっていました。。今迄に僕が聴いたフロンターリとは違いました。今回、そのようなものを彼から引き出したのは、演出に負うところが大きいと思います。舞台の中央にある大きな鏡が、時にして映像を映し出します。ここに、ダンカン王とレディ・マクベスの不倫関係を匂わせるような様子が出ると、さらにマクベスの苦悩はつのります。第3幕の魔女達のバレエは、パリ版で追加されたものですが、かなり短縮去れ、本来なら10分以上あるのが、3分くらいになっていました。しかし、これも紗幕を大きく使って、踊っている魔女の顔や体をズームアップして見せるので、美しくも気味の悪い雰囲気を醸し出します。

 こういうプレッシャーを全部背負って倒れていくマクベス。カバーニの演出などに比べると、恐ろしい男という面が下がって、権力に取り憑かれた悲しい男の性が前面に出て来ます。これを、美しい高音と、作りすぎない彼らしい低音で、感情を込めて歌うフロンターリ。まさしく、究極のヴェルディバリトン、もはや涙無しには聴けませんでした。

 儲け役のマクダフを歌ったボラ、フランス人ぽい名前ですが、メーリを思わせるような、輝かしい高音で、第4幕冒頭のアリアはやんやの拍手です。

バンクォーを演じたマストローニも、良くひびく声と副官らしいきびきびした演技で好感が持てました。

 残念だったのは、レディ・マクベスのブランチーニ。演技にあまりにも力を入れるせいか、肝心の歌唱のほうが負けてしまっています。中音がかすれたり、ブレスがおかしくなったり、やたらにカスレ声を多用したりして、自然ではないのです。演出が多分に“戯曲より”になっていたためだとは思いますが、若いソプラノにはやや酷だったかもしれません。ただ、拍手は非常に多かったので、パリの聴衆にはその“戯曲的歌唱”が受け入れられたのだと思います。

 指揮のダニエル・ガッティは久しぶりに聴きました。最近ではイタリアよりも他国での活躍が多いようで、ドイツ物も振っているようです。もともと、ヴェルディならドン・カルロなどの後期ものを、さらに重厚に振るので、やや心配がありましたが、この日は序曲から過剰な重さがありませんでした。レディ・マクベスの乾杯の歌など、何カ所かではかなりテンポを上げていました。全体として、重い演出をうまく動かしていました。歌手への目と指揮棒での“指示”は非常に積極的で、彼のこのオペラにかける意気込みがわかりました。

 しかし、ともあれ、今回のオペラは、フロンターリが座長のようでした。今迄、前に出てこなかった彼が、目を見張る歌唱と演技で劇場を圧倒しました。1948年生まれで今年67歳と言えば、若くはありませんが、層が薄くなってきたヴェルディバリトンでヌッチを次いでほしいと思います。

 今回のシャンゼリゼ劇場、実際にはシャンゼリゼ通りから一歩入ったところにあります。なかなか素敵ですし綺麗です。バルトリが昨年オテロ(ロッシーニ)を歌いましたし、ネトレプコも来週リサイタルを開きます。この中くらいのサイズの劇場で聴けるのは、随分贅沢ですね。ここは是非とも又、来たい劇場です。

後述:非常にヴェルディに詳しい、私の尊敬する方から「ヴェルディはマクベス夫人を嗄れた声で歌ってほしいと言った意味のことを書簡で言ってましたから、ブランキー二はワザとやったのかもしれません。」というご意見を頂きました。不勉強で知りませんでした。それで、かなりの部分は納得が出来ます。この場を借りてお礼申し上げます。

th-IMG_1524.jpg美しいたたずまいのシャンゼリゼ劇場


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