プロヴァンスの海と土を少し 湘南人草間文彦

二期会”ナクソス島のアリアドネ“

 11月26日土曜日の公演に行ってきました。僕の大好きなこの演目を1ヶ月の間に、ウィーン国立歌劇場とライプツィヒ歌劇場との提携での二期会の、2つの公演を聴けてとても幸せです。

 まずは、指揮!ハンブルグ州立歌劇場の総監督を長く務める女性指揮者、シモーネ・ヤング。3年前にそのハンブルグでコンビチュニー演出のちょっとおもしろい“マイスタージンガー”を彼女の指揮で聴きましたが、素晴らしいものでした。この日のナクソス島、マレク・ヤノフスキとは全く違った音を聞かせてくれました。ヤノフスキの繊細で透明で、まるで弦楽四重奏のような音に対して、ヤングの音は優美で豊穣感に溢れ、小さなオケが大きく聞こえました。何か、ヤノフスキの管弦楽的な指揮に対して、マエストラは完全にオペラの指揮というような違い。ドタバタ劇に近い、ユーモアに溢れたこの演目には、ヤングの指揮のほうがあっているかと思いました。ただ、個人的には、ヤノフスキの音のほうが鮮烈なインパクトを受けたのが正直なところ。

 歌手陣も非常に充実していました。特にプロローグが終わり、オペラの舞台になってから、ここでビシッとしまりました。3人の妖精の三重唱が素晴らしい。そしてそれに続いてのアリアドネの林正子、今日の最大のBravaでした。透明感に溢れた声ですが、適度な重みがあり、上品で、役柄にぴったり。声量もたっぷりあり、声を張り上げている感じがまったくしません。バッカス(やや高音が苦しかった)との二重唱も素晴らしいものでした。ツェルビネッタの髙橋維も「偉大なる王女様」のアリアを、実に魅力的に歌い上げました。中音と高音の声質がほとんど変わらずに、高いところまでグィッと音を上げていくところが、素敵でした。いつもCDでデセイのツェルビネッタを聴いていますが、高橋さんのはプティボンみたいでした。

 そして、特筆しなければならないのは、演出。完全な現代への読み替えの舞台で、プロローグは後ろに駐車場がガラス越しに見える楽屋裏。これが、西銀座の地下駐車場を晴海通りの地下から見たところにそっくりでした。ハルレキンたち、ブッファの一団がハーレーダビッドソンみたいなバイクで到着したような設定がおもしろい。ただ、その後、狭い感じのこの地下空間に大人数がすし詰めになったところに、掃除のおばさんや、愛の架け橋をつなぐ役としてオペラのラストにも登場するキューピッドなども動き回り、やや詰め込み過ぎという感じがしました。しかし、オペラになって、階上の広い宴会の場(?)では、充分な空間がある感じがして、ほとんどミュージカルに近いような歌手たちの動きが楽しめました。特に、ツェルビネッタが高さ1メートルはあるバーカウンターの上から直立のまま倒れて道化たちの腕の中で受け止められるところは、思わず「アッ」と叫びそうになりました。

 今回の二期会のナクソス島、指揮とオケ、歌手、そして演出が見事にひとつの結晶になった、傑作だったと思います。

指揮:シモーネ・ヤング
演出:カロリーネ・グルーバー
東京交響楽団

執事長:多田羅迪夫
音楽教師:小森輝彦
作曲家:白𡈽理香
プリマドンナ/アリアドネ:林 正子
テノール歌手/バッカス:片寄純也
士官:渡邉公威
舞踏教師:升島唯博
かつら師:野村光洋
召使い:佐藤 望
ツェルビネッタ:髙橋 維
ハルレキン:加耒 徹
スカラムッチョ:安冨泰一郎
トゥルファルデン:倉本晋児
ブリゲッラ:伊藤達人
ナヤーデ:冨平安希子
ドゥリヤーデ:小泉詠子
エコー:上田純子


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新刊「音楽で楽しむ名画」加藤浩子著

 昨年、12月に刊行された「オペラでわかるヨーロッパ史」から、ちょうど1年、加藤さんの新刊が発売になり、予約していたので一昨日の金曜日、初版日の翌日に届きました。「カラー版 音楽で楽しむ名画: フェルメールからシャガールまで (平凡社新書)」。早速、一気に読みました。
 
 音楽と絵画を結びつけた本って、今までなかったように思います。僕は絵も描けないし、歌も歌えませんが、毎年一回、家内とヨーロッパに旅行に出かけるときは、オペラと美術館をセットにして数カ国を巡ります。そういう人はいらっしゃると思いますから、この本を楽しみに待っていた音楽ファン、美術ファンも多いと思います。

 この本には40のエッセイが書かれており、そのひとつひとつが、音楽と絵画のつながりを、歴史的な資料と、緻密な研究、カラーの絵画、そして著者の思考力から編み出される指摘や推察で、実に魅力的で知的な宝石箱のような読み物に仕上げています。

 まず、心臓がドキドキするくらいに衝撃を受けたのは、ヴェルディの“リゴレット”と、スペインの画家ディエゴ・ヴェラスケスの名画“ラス・メニーナス”に見る異形の登場人物との関係について書かれた「宮廷道化に託された人間の姿(P75)」でした。ヴェラスケスは、僕の大好きな画家で、昔、短い期間でしたが、マドリッドに住んでいた時には、この絵の前に何度も何時間も立っていました。宮廷で浪費に明け暮れたフェリペ4世の姫と女官たちを、ヴェラスケスは冷めた目でこの絵を描いたと、スペイン人の教師に教わりましたが、加藤さんは、その異形の人々の悲しみを、マントヴァ公の庇護を受けながら美しい娘を救えなかったリゴレットに結びつけています。

 この文章は、第三章の「はみ出し者たちの饗宴」で語られていますが、この章には他にも「お針子たちの夢」というエッセイもあり、ラ・ボエームとルノワールの絵の関連性が書かれています。そして、ルノワールの「プージヴァルのダンス」のモデルは、モーリス・ユトリロの母のシュザンヌ・バラドンだと説明されています。バラドンも僕の大好きな画家で、昨年のBunkamuraでのエリック・サティ展で、彼女がサティの生涯ただ一人の愛人であったことを知り、とても興奮したのですが、加藤さんの本を読んで、またその興奮がよみがえってきました。

 この他にも、クリムトとマーラーの一人の女性を鍵につながる芸術性のこと、ドビュッシーやラヴェルとモネのフランス印象派の共通性、バイオリンの名手だったパウル・クレーと彼の絵画の中に隠された音楽への造詣などなど、あまり書くと「ネタバレ」になってしまいますので控えますが、この本は音楽と筆者のもつ絵画への愛情と知識が、この2つの分野を時空と領域を超えてコンタクトさせた名著だと思います。

 昨年、僕は家内とアムステルダムの歌劇場で、ドミナーノ・ミキエレットの演出による”ランスへの旅“を聴いてきましたが、この演出はとても素晴らしく、舞台は美術館、コルテーゼ夫人は学芸員、フォルヌヴィル伯爵夫人の荷物として運び込まれるのは、名画の数々、最後のシーンはそのまま紗幕が降りて、画家フランソワ・ジラールの「シャルル10世の戴冠式」になって終わったのですが、加藤さんの本を読んで、その時の興奮もよみがえりました。要は、僕はこの本を読んで興奮ばかりしていたということです。

 演出家でさえも、なかなか結びつけられない音楽と絵画のつながり、これを見事に、しかも、40もの例を出して本に編み上げたところに、この本のすごさがあると思います。何年かしたら続編を出してほしいと願わずにはいられません。Brava 加藤さん!

日生劇場「後宮からの逃走」--”赦す”ということ

 「NISSAY OPERA 2016 オペラ」と銘打ったオペラのシリーズ。6月の「セビリアの理髪師」、7月の「ドン・パスクワーレ」に続いての3作目がモーツァルトの「後宮からの逃走」です。11月12日土曜日のマチネに行ってきました。「後宮からの誘拐」というタイトルでも知られているオペラです。しかし、序曲は非常に有名ですが、全幕で上演されることは少ないですね。僕もすっかりどこかで見たつもりになっていましたが、実はこの日が生では初めての観劇でした。

 最近はウィーンやプラハの国立歌劇場の来日公演で文化会館やオーチャードホールのような大劇場にばかり行っていたので、小さな日生劇場に来ると、イタリアの小劇場に来たような安堵感があります。この日も寸前まで行けるかどうかわからず、当日券で天井桟敷の席を取りましたが、それでも文化会館の1階L/R席の最前列から舞台を見るのと大して変わりありません。小さいことは良いことだ!

 このオペラの上演回数が少ないのは何故でしょうね。モーツァルトの4大オペラというと、「フィガロの結婚」。「コジ・ファン・トゥッテ」、「ドン・ジョヴァンニ」、「魔笛」なので、そこから漏れてしまったせいでしょうか?それもあると思いますが、けっこう歌唱が難しい。一幕目のコンスタンツェの「どんな拷問が待っていようと」は大アリアと言うべきで、難しいコロラトゥーラを要求されますし、同じく一幕目のオスミンの「乙女の尻追う風来坊」は、超低音のDがあるというように、けっこう難物のようです。

 この日のコンスタンツェ役の佐藤優子さん、最初はちょっと緊張気味でしたが、天性の豪華なソプラノの声を持っていますし、技巧も素晴らしい。捕らわれの身でありながら自己を強く主張する.....その表現力に溢れていて、とても魅了されました。オスミンを歌ったバスの加藤宏隆さん、2013年にムーティのオーチャードホールの講演(“公演”ではありません。)で、声に合わない”プロヴァンスの海と土“を歌わせられて、しごかれていたのが印象的でしたが、この日も素晴らしい低音と、汗だくになりそうなコミカルな演技で拍手をもらっていました。この二人がオペラを引っ張ったと言えるでしょう。ブロンデ役の湯浅ももこさん、スブレットらしい可愛らしくも知的な歌唱と演技で、オスミンを手玉に取ります。スザンナやツェルリーナでも聴きたくなります。ベルモンテの金山さんも難しいアリアを歌いこなしていましたが、声質がややこもるために、高音が伸びていない印象がありました。そして、歌わなかったですが、太守セリム役の宍戸開さん、さすが俳優だけあって存在感抜群。まあ、ちょっとオペラの役としては目立ち過ぎという感じもありました。

 このオペラは、チェンバロやフォルテピアノで装飾される、レチタティーヴォがなくて、セリフで歌がつながるのですが、このセリフはすべて日本語になっていました。日本語訳は、実に軽妙でユーモアに溢れるもので、コンメディア・デラルッテのおもしろさが良く出ていました。ただ、以前の二期会のこうもりでやったように、むしろ歌自体も日本語にしてしまってもおもしろかったかなと思いました。セリフだけが日本語で相当量あって、その後の歌が突然ドイツ語というのが聴いている僕としては切り替えが追いつかない感じがあったのも実感です。

 そして、このオペラで圧倒的に良かったのが、舞台美術。まず、序曲のところでは舞台全面が細かい紗幕で覆われ、その中は明るい光の中で晩餐の準備をしています。これが、超大型のテレビスクリーンを見ているようで、実に新鮮です。数年前にLAのスタジオで8Kの大画面のスクリーンでワールドカップサッカーを見たことがありますが、その印象に近かったです。序曲の間に、言葉はないのですが、「昔々あるところでのお話です」という感じが出ています。18世紀末から19世紀前半に流行った”トルコ“や”異国“もののオペラのお伽話感が良く出ていて秀逸なスタートでした。しかし、オペラ本編がはじまってからは、大仕掛けは何もなく、城の壁やバルコニーになる舞台奥手の2mほどの高さの台と、4つのホイール付きのテーブル、そして多数の椅子。これらを合唱団が動かして、晩餐の場にしたり、道にしたり、船にしたりするのが、実に目を楽しませてくれます。舞台美術を担当している“幹子Sマックアダムス”という方は知らないのですが、イェール大学で美術学修士をとっているそうです。もちろん、演出の田尾下哲の意向が明確なので、日本語のセリフとあいまって、斬新な舞台を作っていると言えると思います。

 指揮の川瀬賢太郎、初めて聴きましたが、素直なモーツァルトをコンパクトに鳴らしてくれていました。ただ、あまりに教科書的な音で、軽快さ、愉快さ、ふくらみに欠ける感じがしました。序曲はちょっとピリオド楽器っぽくっておもしろい音だったのですが、後が普通でしたね。。

 さて、このオペラで一番、感動したことは、実は無料で配布された“プログラム誌”にあります。それが岡真理さんという現代アラブ文学者の書いた『「赦し」—奇跡の贈り物としての』です。彼女の文章は、「『後宮からの逃走』の舞台はオスマン帝国、イスラーム世界だ。イスラームというと、他者に対して不寛容な宗教という印象があるかもしれない。実際『イスラーム国』を名乗る集団が異教徒を奴隷にしたり、神(アッラー)の名によってロック・コンサート会場を襲撃したり、そんな出来事が頻々と起きて、私たちの印象を裏付けてしまう。」という新聞の政治論評のように始まっています。岡さんは続いて、イスラームの国、イランでは「死刑が決まった加害者に対して、被害者がその罪を赦すように判事が説得をし、被害者が考える時間が数年間与えられる。」という例や、ヨーロッパの歴史の中でのイスラーム教が異教徒に対して、比較的慣用であったことなどをあげて、このことを太守セリムの「赦し」につなげているのです。

 彼女はさらにこう言います。「ベルモンテが殺されれば、嘆き悲しむのは父親だけではない、ベルモンテの母親も、そして今、自分が愛しているコンスタンツェをも傷つけ、その魂を苛むことになる。かってロスタドス(ベルモンテの父親=セリムの仇敵)が彼の恋人にそうしたように。自分が敵と同じ存在になりはてることこそ、自らの愛を裏切り、恋人を深く悲しまさせることだ。コンスタンツェを力づくで自らのものにしなかったのも、仇敵と同じ地平には墜ちたくないという思いがセリムの中にあったからだろう。」と説きます。そして、最後に「だからこそ今、セリムの『赦し』——人間で有り続けることがもっとも困難な状況においてさえ、それでもなお赦しがたき敵を赦し、人間の側に踏みとどまり続け、そうすることで憎しみの連鎖を断ち、より良い世界を築こうとする者たちの意志———が、私たちの魂の糧として、何にも増して必要とされているのだと思う。【中略】「後宮からの逃走」を観る/聴くとは、モーツァルトの音楽だからこそなしうるこの至福に満ちた奇跡の瞬間を私たちひとりひとりが体験することにほかならない。「後宮」はモーツァルトから私たちへの奇跡の贈り物だ。その奇跡はまだ舞台の上だけのことだけど、いつかそれは現実のものとなるだろう。私たちに想像できるものは、きっと実現できるのだから。【2016年、15回目の9月11日に、おかまり/現代アラブ学、日生劇場「オペラ、後宮からの逃走」プログラムより抜粋引用。】)

 実に6頁にもわたる格調の高い文章は、普段知ることのないイスラームの考え方を垣間見るとともに、このオペラが現在の社会に対して「奇跡」を起こすことをあきらめてはいけないという強いメッセージを投げかけて来ているのです。この文章を幕間に読んでいたので、3幕目の最後、セリムが処刑台にはりつけられた4人に自由を与え、船でスペインに送り返すシーンにはジーンと目頭が熱くなりました。

 「オペラの解説を読んで、世界の平和を考える。」なんて、安易すぎるかもしれません。実際の平和を成し遂げるのは、そんな容易なことでできるとは思いませんし、僕がこれを読んだ後に実際にどのような行動を取ろうかということも、まだ考え始めたばかりです。しかし、思い出すのは昨年の11月13日にパリで起こった同時多発テロで妻を亡くしたフランス人のアントワーヌ・レイリスさんは、その3日後に自身のフェイスブックでこのようにメッセージを発信しました。「あなたたちは私に憎しみを抱かせることはできません。13日の夜、あなたたちは特別な人の命を奪いました ―― 私が生涯をかけて愛する人であり、私の息子の母親です。 しかしあなたたちは私に憎しみを抱かせることはできません。私はあなたたちが何者かを知らないし、知りたいとも思いません。あなたたちは魂を失った人間です。殺人をもいとわないほどにあなたたちが敬っている神が自分の姿に似せて人間を創造したのだとしたら、私の妻の体に打ち込まれた全ての銃弾は、神の心を傷つけたでしょう。私はあなたたちの願い通りに憎しみを抱いたりはしません。憎悪に怒りで応じれば、今のあなたたちのように無知の犠牲者になるだけです。あなたたちは私が恐れを抱き、同胞に不審な気持ちを持ち、安全に生きるために自由を失うことを望んでいる。あなたたちの負けです。(後略)」とレイリスさんは述べています。「赦す」とまでは言っていませんが、憎しみと報復をすることが、自身を「無知の犠牲者」になるというのは、太守セリムの判断のもとになっている考え方と同じです。

 オペラを初めとするエンタテイメント業界でのイベントや、僕のブログで、このような話題を持ち出すことに違和感を持たれる方もいると思います。僕も、今までそのような話題をこのブログに載せたことはないのですが、初めて「書きたい」と思いました。

 岡さんの文章には心を打たれましたが、また、オペラの解説にこのような文章を取り上げた主催者としての日生劇場の勇気にも敬意を表します。

 日生劇場の2016-2017オペラシリーズは、来週の”ナクソス島のアリアドネ”(ライプツィヒ歌劇場との提携公演でシモーネ・ヤングが振ります!)、来年は、”ラ・ボエーム”、”ルサルカ”、そしてなんと、"ノルマ”と上演されます。いや、すごい力入っていますね。日本で中規模の劇場の上質な上演が味わえる、そんなところは関東ではこの日生劇場とテアトロ・ジーリオ・ショウワぐらいです。チケットは1万円以下ということで、コストパフォーマンスも抜群。是非観劇(感激?!)お勧めします。

モーツァルト作曲 オペラ『後宮からの逃走』全3幕
(ドイツ語歌唱・日本語台詞・日本語字幕付)
指揮:川瀬賢太郎
演出:田尾下 哲
管弦楽:読売日本交響楽団
太守セリム 宍戸 開
コンスタンツェ:佐藤優子
ブロンデ:湯浅ももこ
ベルモンテ:金山京介
ペドリッロ:村上公太
オスミン:加藤宏隆

美術 幹子・S・マックアダムス
照明 沢田祐二

合唱/C.ヴィレッジシンガーズ





 

ウィーン国立歌劇場 ”ワルキューレ”

 11月9日のマチネ公演に行ってきました。さて、何から書いたらいいのやら。まだ、昨日の興奮が醒めやらぬ状態です。

 僕のオペラ友達の間では、歌手の目玉のニーナ・シュテンメが本当に来日してくれるのかが心配されていました。今回の来日の寸前までMETでイゾルデを歌っていたのです。普通の歌手なら、あのような大役をこなした後はしばらく休養を取るものですが、すぐに日本にやってきて大丈夫だろうか、それよりも来れるのだろうか?というのが心配の理由でした。実際、シュテンメの来日を確認をしてからチケットを取った友人もいました。僕は、早くにとってしまって、ただただ心配をしていたのですが。

 そのシュテンメ、本当に極上のブリュンヒルデを歌ってくれました。「チョー素晴らしい!」と言いたい!声量がたっぷりあるのですが、それをストレートに感じさせないような、声の結晶がほとばしり出てくるような美しさがあります。そして、そして容姿もワルキューレとして美しい。インターネットの音声や映像で聴いていても凄い!と思っていましたが、生で聴いてみて、「ああ、これがワーグナーが求めていた、まさに“女性による救済”を体現した声なんだなぁ。」と思いました。高貴さ、強さ、優しさ、包容力を声の輝きの中に包み込んでいます。この声を聴いているだけで、夢の中にいるようでした。

 そして、ヴォータンのトマス・コニエチュニーも素晴らしかったです。彼の声は歴代のヴォータンの威厳があり、神々しいものとはちょっと違って、人間くささがプンプンとするようなものでしたが、強く激しい声の出し方とは裏腹に、耳にはむしろ優しく届く、独特の歌い方でした。1幕目のフリッカとのやりとり、3幕目のブリュンヒルデとのやりとりでは、怒りや憤りよりも、自身の悲しみをやるせなさを声に表現してくれました。「声で表現」と簡単に言いますが、この人ほど歌唱で、役の気持ちを表現できるのはなかなか聴いたことがありません。ひとつ気がついたのは、歌の最後の部分や、ため息をつくようなところで、イタリア歌劇のヴェルディのような、嘆き節っぽい唱法を感じたことです。これは、僕がヴェルディ好きだからかそう思ったのかもしれませんが、通常のワーグナーのバスバリトンとはちょっと違って、ヴェルディのバリトンのような感じがありました。2013年のヴェルディとワーグナーの生誕200年の時に、ヴェルディの生地サンタガータを訪れた時に、近くのパルマの町では、ヴェルディとワーグナーを比較したコンフェレンスや展示会が行われていて、このテーマが“Werdi e Vagner”でした。残念ながら、その時はオペラの公演に行くのに追われていて、そのような展示会に行けませんでしたが、ヴェルディとワーグナーに共通する部分というようなものを、コニエチュニーのヴォータンから聴き取ったような感じがしました。Vagnerですね。。。

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2013年パルマでのWerdi e Vagner フェスティバルの立て看板

 三幕目のヴォータンとブリュンヒルデのやりとりは、息を止められてしまうような緊迫感のある素晴らしいものでした。今までワルキューレ、何度も聴いていますが、これほどヴォータンとブリュンヒルデの心の襞と襞のふれあいが感じられたことはありませんでした。とにかく、先ほども書きましたが、この二人の声の表現力はぞくぞくするものがあります。そして、それに輪をかけて素晴らしいのは、アダム・フィッシャーの指揮によるオケの力もでした。

 フィッシャーの指揮は、まず、一幕目の嵐の序奏から、本当に突風が吹いてくるような緊張感でホール全体を支配しました。あっという間にオペラの舞台に引っ張りこまれるような感触。その後も金管、木管、弦、打楽器の音がそれぞれのパートの出番の時に、演奏者が立ち上がっているかと思わせるような立体感が出ていました。そして、また音が良い!ウィーンフィルハーモニーですから当然ですが、金管のホルンの音など、もうたまりません。僕のリングのベンチマークになっているしばらく前の巨匠の指揮(クナッパーブッシュ、フルトヴェングラー、ショルティと言ったところでしょうか)などとは全く違う、繊細さと切れの良さ、力で押すのではないけれど、しかし大胆に鳴らす時は鳴らす、、月並みな表現ですが、これが凄いのです。

 フィッシャーは、歌手の歌詞のひとつひとつを音楽で包むように鳴らします。それは声の結晶を下から蓮の葉で玉のように浮き上がらせる感じ。なんとも言えない恍惚とした音楽と歌唱の一体感です。3幕目は、「まどろみの動機」、「運命の動機」、「槍の動機」、「ローゲの動機」などが、まさに歌手の歌と演技にぴったりとはまって、浮き上がってきます。特に「ジークフリートの動機」を聴くと、この後の第2夜”ジークフリート“で、「さすらい人」になって、自身が一旦捨てたヴェルズング族に望みを託す、ヴォータンの行く末が予測されます。この日は、今までのワーグナーの音楽で一番「品格」を感じた演奏だったと思います。それが、新しいワーグナーの演奏かどうかはわかりませんが、今までに味わったことの無い料理を食べて、それがものすごく美味で感激してやみつきになる、、そんな体験でした。

 歌手では、フリッカのミヒャエラ・シュースターも存在感のある歌唱が良かったです。人間っぽいヴォータンに逃げ道を与えずにたたみ込むような強い声で、普通は割と”ダラダラ“としてしまう、(それがまた魅力なのですが)1幕目の夫婦げんかのシーンに緊張感を与えています。そして、ジークリンデを歌ったペトラ・ラングも、弱く救いのない彼女の状況を良く表現していました。ジークムントのクリストファー・ヴェントリスも張りと艶のある声。体全体で演技をして生きることに必死な様が心を打ちました。フンディングのアイン・アンガーは、その役名の通り「犬」のような野蛮で粗野なイメージを声量のある声で強く出していました。1幕目が断然締まりました。いやいや、もう誰を見ても素晴らしい歌手陣ですね。なにしろ、ナクソス島で作曲家を歌ったステファニー・ハウツィールがワルキューレの一人であるワルトラウテという端役をやっているくらいですから、ワルキューレの「ホヨトホー!」だけ聴いてもレベルが違います。

 今回のワルキューレ、僕は、ようやくワーグナーの「楽劇」というのが、どのような意図で作られたのかが、胸にストンと落ちてきた感じがしました。それほど、指揮と歌手と演出が一体になって、からみあって、最高のワーグナーを現実のものとしてくれていたと思います。

 演出については、舞台芸術的な部分というのはたいしたことはなかったです。コストをかけずに、最後にローゲの炎がプロジェクトマッピングで派手に出てきたというところですが、全幕に渡っての歌手の動き、表情、手が表す感情が素晴らしかったです。ただ、両手を広げて歌っているというところがありませんでした。

 会場に着く前から、期待を大きくもってこのオペラを聴きましたが、その期待をも大きく上回る体験ができました。3幕目の後半は涙が止まりませんでした。相当の出費をしましたが、それでもお釣りが来るような感動をもらいました。

 10月、11月はオペラや交響曲の公演が詰まっていおり、すでに今日までに10公演に行きましたが、今年の秋は本当に「当たり」です。まだ、シモーネ・ヤングの”ナクソス島“も残っています。楽しみですね。

指揮:アダム・フィッシャー
Dirigent:Adam Fischer
演出:スヴェン=エリック・ベヒトルフ
Regie:Sven-Eric Bechtolf
美術:ロルフ・グリッテンベルク
Bühne:Rolf Glittenberg
衣裳:マリアンネ・グリッテンベルク
Kostüme:Marianne Glittenberg

ジークムント:クリストファー・ヴェントリス
Siegmund:Christopher Ventris
フンディング:アイン・アンガー
Hunding:Ain Anger
ヴォータン:トマス・コニエチュニー
Wotan:Tomasz Konieczny
ジークリンデ:ペトラ・ラング
Sieglinde:Petra Lang
ブリュンヒルデ:ニーナ・シュテンメ
Brünnhilde:Nina Stemme
フリッカ:ミヒャエラ・シュースター
Fricka:Michaela Schuster
ヘルムヴィーゲ:アレクサンドラ・ロビアンコ
Helmwige:Alexandra LoBianco
ゲルヒルデ:キャロライン・ウェンボーン
Gerhilde:Caroline Wenborne
オルトリンデ:ヒョナ・コ
Ortlinde:Hyuna Ko
ワルトラウテ:ステファニー・ハウツィール
Waltraute:Stephanie Houtzeel
ジークルーネ:ウルリケ・ヘルツェル
Siegrune:Ulrike Helzel
グリムゲルデ:スザンナ・サボー
Grimgerde:Zsuzsanna Szabó
シュヴェルトライテ:ボンギヴェ・ナカニ
Schwertleite:Bongiwe Nakani
ロスヴァイセ:モニカ・ボヒネク
Roßweiße:Monika Bohinec

ウィーン国立歌劇場管弦楽団、ウィーン国立歌劇場舞台オーケストラ
Orchester der Wiener Staatsoper, Bühnenorchester der Wiener Staatsoper

プラハ国立歌劇場“ノルマ” グルベローヴァ

 プラハ国立歌劇場来日公演の最終日、”ノルマ“に行ってきました。この公演はタイトルロールにエディタ・グルベローヴァとディミトラ・テオドッシュウを起用していて、どちらに行こうか迷ったのですが、一旦引退を表明してまた歌い始めたグルベローヴァの声をもう一度聞きたいと思いチケットを取りました。ノルマを生で聴くのは2013年のザルツブルグでのアントニーニ指揮、バルトリ主演の公演以来3年半ぶりです。日本ではなかなか聴けないですね。

 一幕目、オロヴェーゾを歌うコロトコフがなかなか良く響くバスで聴衆をドラマに導きます。そして、ポリオーネのゾラン・トドロヴィッチ。新国立でカルメンのホセや、運命の力のアルヴァーロなどを聞いて、どちらかというとくぐもった声でイタリアっぽくないという印象を持っていたのですが、この日はなかなか良かったです。明るくスッと立ち上がる声という印象。

 そして一幕目、10分ほどたって合唱の後に、ついにグルベローヴァ登場。しかし、声が固い、というかなんとか声を出しているという感じです。すぐに、この演目の華とも言えるアリア“Casta Diva(清き女神よ)”に。しかし、全く音程が合わない。高音が上がらない。声が震えて安定しない。まるで、立ち稽古で不調の歌手が調子だけ合わせているような歌い方です。いや、びっくりしました。ここまで衰えてしまったのか。

 Casta Divaが終わると2列ほど前の観客がすごい勢いで立ち上がって帰って行きました。僕も家内と一緒でなければそうしたかもしれません。

 このあと2幕目の前半だけはまずまずのレベルに戻しましたが、最後のポリオーネとの二重唱なども、聞くのも哀れという状態でした。名古屋での公演でも一幕目はあまり良くなく、二幕目で持ち直したということでしたが、この日は本来なら一幕目で降板すべき出来でした。憤るよりは心から悲しい気持ちになりました。2008年のロベルト・デヴェリューで素晴らしい歌唱を聴かせてもらい、その後の引退表明を翻して欧州で歌っていたの聞いていましたが、おそらくは、今回日本での3週間近いツァーの疲れが年齢に堪えていたのでしょう。残っているリサイタルで調子を戻すことを願うばかりです。

 この公演を救ったのは、アダルジーザ役のスザナ・スヴェタ。低音から高音まで芯の通った、輝くような美しい声で、アダルジーザの役柄上の年齢(20歳くらいだと思います)を感じさせる若さもあります。グルベローヴァの愛弟子ということで、彼女と似たような響きがあります。二人で歌う場面ではスヴェタのほうが、圧倒的に良い出来だったのが皮肉でした。

 前述したようにオロヴェーゾのオレグ・コロトコフも良かったです。このオペラはオロヴェーゾの第一声から始まります。これが悪いと、オペラ自体が不出来になってしまうのは、シモン・ボッカネグラのパオロと同じような役回りです。で、コロトコフの第一声素晴らしかったですね。オペラが締まりました!そして、同じく前述したようにゾラン・トドロヴィッチも随分うまくなったものです。過去の公演で悪いイメージを持っていたので、ポリオーネの第一声にもびっくりしました!それと脇役ですが、クロティルデのシルヴァ・チムグロヴァーも美声でした。

 指揮とオケは特筆するべきことはあまりありませんが、逆に言うと素直に楽しめました。ヴァレントヴィッチの指揮は、モダン楽器をピリオド楽器のように聞こえさせるような感じで、音を伸ばさずに切っていきます。これ好きです。ただ、これは僕が、アントニーニやビオンディのピリオド楽器でのノルマが大好きだということがあるので、人によっては物足りないと感じたかもしれません。それと、指揮が歌手の邪魔をしないようにという感じが出過ぎていた感じがありましたね。もう少し自己主張をしてくれても良かったかも。。あと、合唱は正直相当な不出来でした。

 それにしてもソプラノ歌手の引き際は難しいですね。これが、僕にとっての最後のグルベローヴァとなるのでしょうか? ホロヴィッツも吉田秀和に「ひびの入った骨董品」と酷評された83年の演奏のあと、亡くなる3年前の86年に本人の強い希望で再来日し、素晴らしいスカルラッティやモーツァルトを弾き、吉田秀和は「こんどの彼は一人のピアノをひく人間として来た。」と褒めて新聞に評論を書いたそうです。グルベローヴァも近い将来、そんな時が来て欲しいと心から願っています。

指揮:ペーター・ヴァレントヴィッチ
演出:菅尾 友

ノルマ   :エディタ・グルベローヴァ
ポリオーネ :ゾラン・トドロヴィッチ
アダルジーザ:スザナ・スヴェダ
オロヴェーゾ: オレグ・コロトコフ
フラヴィオ :ヴァーツラフ・ツィカーネク
クロディルデ:シルヴァ・チムグロヴァー

プラハ国立歌劇場管弦楽団、合唱団

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