プロヴァンスの海と土を少し 湘南人草間文彦

生誕200年記念ヴェルディアップダウンクイズ

ヴェルディの生誕200年を記念して大クイズ大会開催!賞品は無し!答えは下に。

下記の各項目が正しいかどうか判断して下さい。

1.ヴェルディは貧農の家に生まれ、口減らしのために隣町のブッセートの豪商アントニオ・バレッツィの家に奉公を兼ねて養子に出されました

2.幼いヴェルディが初めて使った楽器は、中古のスピネット(家庭用小型チェンバロ)だったが、この修理にあったたカヴァレッティという調律師はヴェルディの才能に驚嘆して修理費を無料にしました。

3.ヴェルディは音楽をやるかたわら副業にやっていた農業が成功し、大地主になりましたが、「私を農民として批判するのはかまわないが、音楽家として批判するのは許さない」と音楽家としてのプライドを保ち続けました。

4.サッカーの日本代表のテーマにアイーダの凱旋行進の曲が使われているのは、パルマでプレイしていた中田選手がアイーダを気に入ったことが原因になっています。

5.ヴェルディは遺言で自分の葬儀は質素にしてほしいと願っていましたが、彼のことをイタリアの誇りと思う国民と、彼の愛弟子であったトスカニーニ、そしてイタリア上院議会の決定により、大々的な葬儀が行われ、その葬列の沿道にはミラノ市民30万人が集まりました。





で、答え。

1.ヴェルディの生家はロンコレという小さな村で宿屋、食料品屋、郵便局をやっていました。裕福というほどではありませんが、貧農では全く無く、バレッツィは純粋にヴェルディの音楽の才能に魅力を感じて、援助を申し入れたのです。

2.その通りのようです。この調律師は将来ヴェルディが偉大な音楽家になると確信し、自信の名前と修理をした事実をそのスピネットの内側のプレートに記したそうです。本物見てないんですけど。

3.これは逆で、「私を音楽家として批判しても良いが、農民として批判することは許さない」と言ったのです。そのくらい、農業に入れ込んでいるヴェルディでした。

4.これは本当のことだそうです。

5,これは違うと僕は思います。ヴェルディがミラノマンゾーニ通りのグランドホテルの3階の部屋、1901年1月27日に亡くなった後、人々は大々的な葬儀を望んだのですが、彼の遺言は「2人の僧と2本のローソクと十字架のみで葬儀を行って欲しい。」と言うものだったので、1月30日にその通りに葬儀が彼の遺志を尊重した家族(養女のマリア・カラーラが主な家族)によって取り行われ、彼の棺は今眠っている「音楽家の家」ではなく、ミラノ市の記念墓地に埋葬されたはずです。そして、翌2月28日に音楽家の憩いの家が完成したのを記念して、その式典としてヴェルディの墓所をその家に移すという名目で、合唱団だけで8000人という大オーケストラをトスカニーニが指揮してミラノの街をヴェルディの棺が移動した、そのことを多くの資料が「葬送」と言ってしまっているのです。これは、おそらくボイトやリコルディ、トスカニーニなどヴェルディの親しかった人々が色々と考えた策だったのだと思います。ですからバツです。
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