プロヴァンスの海と土を少し 湘南人草間文彦

椿姫 2回目観劇

 5月19日の夜の部、新国立劇場の“椿姫に行ってきました。先週13日に続いての2回目の観劇。前回、ブログにも書いたように、指揮、歌手、演出ともに、素晴らしかったのでもう一度行ったような訳です。しかし、その中では、前回アルフレードのアントニオ・ポーリが今ひとつだったのが気になっていました。
ローマ歌劇場来日の時のナブッコのイズマエーレ、スカラ座来日でのファルスタッフでのフェントンで、甘いイタリアンボイスを聴かせてくれただけに、今ひとつ納得が行きませんでした。13日は、1幕2場の最初の、” lunge da lei per me non v'ha diletto”のところで、声がつぶれてしまったのです。で、その後、どうもやる気が失せてしまった感じがありましたが、19日では、安全運転で入り、その後のカバレッタ、”o mio rimoroso”で素晴らしい声を聴かせました。彼のアルフレードは、肩に力が入らず、純真で、真面目で、世間知らずな優しい男を完璧に表現しています。この、カットされることも多い、”o mio rimoroso(私の後悔)”のところで、思わずグッと来てしまいました。アルフレードでこんなに心が揺らぐのは初めてです。前回は1幕2場以降、ヴィオレッタに引けを取っていたのが、この日は二人とも凄い!ヴェルディの楽譜をなぞるように、きちんと唄って行くのですが、トスカニーニの指揮のように、その正確さは、音楽の美しさをそのまま僕達にダイレクトに伝えます。プッチーニと比べてはいけないかもしれませんが、前日のトゥーランドッとでカルーソーが声を持ち上げている感じがありましたが、椿姫の二人は、この日、音程は歌い出しから"バチン”と正確。当たり前のことかもしれませんが、こういう正統派の椿姫が聴きたかったんです。

 ヴェルディのテノール役は、あまり感情移入できないタイプが多いですが、このアルフレードもどちらかというと、「馬鹿な男」というイメージになってしまうことが多く、マントヴァ公ほどではないですが、自分自身に投影できない男という感じがしていました。特に"o mio rimoroso"のところは、「パリに金返しに行くゾー」という感じで、勇んで唄う歌手が多く(ゲオルギュー、ショルティ版のフランク・ロパードなど)、それを聴くと「今迄なんで、その暮らしに金がかかることをわからなかったのか?」と言う、アルフレードに対するネガティブな感覚が生まれてしまうのです。しかも、そのカバレッタをハイCで終わらせたりすると、全く馬鹿丸出し。

 ところが、昨日のポーリは、実に自然に歌いました。その態度は、「なんで、気づかなかったんだ」という"rimoroso"が悲しく表現されます。アルフレードの悲しみがさざ波のように伝わってくるんです。もちろん、終わりは普通のC。このように歌われると、聴いている僕の心もアルフレードに寄り添います。本当にこのカバレッタを聴けて良かったです。

 前回は3階の席で、あまり気づかなかった大きな鏡が、今回は2階に座ると非常に良く見えます。あれは何を意味しているのか、デッカー演出の時の時計とグランヴィル医師のように、ヴィオレッタの将来を映し出していたのでしょうか?その意味を探らなくても、視覚的に舞台が広く見えて、大変効果的だったと思います。

 そして、第三幕の”パリを離れて“の熱唱の後に、” Prendi, quest' e l'immagine”(私の肖像画を受け取って)で始まる、葬送の響きと、紗幕中でピアノの向こうに遠ざかっていくアルフレード、ジェルモン、グランヴィル、アンニーナ。この演出は、間違い無く、既にヴィオレッタは亡くなっていることを表しているのだと思いました。そして、ヴィオレッタ(マルグリッド)とアルフレード(アルマン)との距離は、まさしくモンマルトル墓地の二人のお墓の距離、、、正確に言えば15地区と21地区なんですが、、、この距離に等しいと思いました。そうすると、やはり、彼等とヴィオレッタを隔てているピアノはフランツ・リストなのか?

 お墓参りに行ったばかりのせいで、アルフォンシーヌ・プレシの亡霊に取り憑かれているかもしれませんが、この演出大好きです。こうなると、最終日も行きたくなりますね。今回で、トラヴィアータ観劇19回目、20回目もこの素晴らしい公演で聴けるかなぁ。

YouTubeにアップされていた、珍しいフローレスの"o mio rimoroso"です。

 

 

 

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