プロヴァンスの海と土を少し 湘南人草間文彦

アルフォンシーヌ・プレシの白い墓石

11月14日に発刊された、日本ヴェルディ協会の機関誌"ヴェルディアーナ36号”に拙文が掲載されました。5月にトラヴィアータの実在のモデル、アルフォンシーヌ・プレシの墓参りに行ったこと、同じく5月の新国立劇場でのトラヴィアータ公演のことを書きました。どうぞご覧下さい。なお、この本には他にも多彩な投稿があります。是非ヴェルディ協会にご参加下さい。
日本ヴェルディ協会
    [メール]メール koen150612@verdi.or.jp
    [ F A X]03-5333-5899

 五月の半ば、真っ青な空のウィークデイに新国立劇場にオペラ公演《ラ・トラヴィアータ》を聴きに行きました。フランス系カナダ人指揮者のイヴ・アヴェルの指揮棒が、絹の糸を引き出すように序曲を奏で始めると、舞台にかかった紗幕にうっすらと《ラ・トラヴィアータ》の実在のモデルとなった”アルフォンシーヌ・プレシ“の墓が投影されたのには驚きました。と言うのも、パリのモンマルトル墓地にあるこの墓を、僕はこの公演のちょうど一週間前に訪れていたばかりだったのです。僕の目は紗幕に映った大理石の墓に刻まれた文字に釘付けになりました。

ICI REPOSE
ALPHONSINE PLESSIS
NEE LE 15 JANVIER 1824
DECEDEE LE 3 FEVRIER 1847
DE PROFUNDIS

“ICI”は「ここに」“REPOSE”とは「眠る」という意味、その後に「1824年1月15日に生まれ、1847年、2月3日に死す。」と書いてありますから、わずか23年余りの短い人生だったことがわかります。問題は、最後の “DE PROFUNDIS”、「深き淵より」これがわかりませんでした。(だいたいフランス語がわからない…)ですが、色々と調べて見ると、旧約聖書の「改悛詩編」の歌の一節に由来しているようです。すなわち、De profundis clamavi ad te domine, (深い淵より主よ、あなたを呼びます。) Domine exaudi vocem meam, (主よ、この声を聞き取ってください) Fiant aures tuae intendentes, (耳を傾けて下さい) in vocem deprecationis meae. (嘆き祈る私の声に)。ということになるようです。主にこの時代の葬儀で頻繁に使われた祈りの言葉で、この詩編を元にして、バロック時代の作曲家ヤン・ディマス・ゼレンカや、オルランド・ディ・ラッソらが楽曲にしてますね。

 それにしても、僕自身がその一週間前に初めてパリで墓参りをした”ヴィオレッタ“のその大理石の墓が、帰国してすぐに聴きに行った《ラ・トラヴィアータ》の序曲で舞台に浮き上がってくるとは、何か因縁のようなものを感じます。

 それは、僕がヴェルディの作品の中で一番多く生で聴いているのは《ラ・トラヴィアータ》で、かれこれ20回は公演に行ってるからそう感じるのだと思います。(一番好きなオペラはというと、《シモン・ボッカネグラ》にその座を譲りますが…..)これほど ”お世話“ になっているオペラなのですから、一度くらいは主人公ヴィオレッタの墓参りをしなくてはと、シャンゼリゼ劇場での《マクベス》の公演(ガッティ指揮)とオペラ座でのマノンのバレエ公演(オペラ座エトワール、オーレリ・デュポンの引退公演)のためにパリに行ったついでに、モンマルトルを訪れたというわけです。その墓は、墓地の入り口を入ってすぐ左手の第15区の1番にありました。訪れたのは夕方でしたが、その区画は西陽が明るく差しこんで、墓石も後の時代の墓がもっと多くある地区に比べて密集していないとても良い場所に、ひときわ目立つ白い大理石の大きな、存在感のある、そして清楚で美しい墓所がありました。

th-th-DSC01127.jpg
モンマルトルのプレシの墓所


この墓地は決して大きな墓地(青山墓地のように)ではありませんが、歴史上の有名な人達が眠っています。音楽家ではベルリオーズ、オッフェンバック、ドリーブ、作家、画家ではハイネ、ドガ、荻須高徳、スタンダールなど。そして、《ラ・トラヴィアータ》の原作となった小説の『La Dame Aux Camelias(椿の女)』の作者で、プレシと実際に関係のあった、「小デュマ」こと、”アレクサンドル・デュマ・フィス“もこの墓地に眠っています。しかし、そのような「格調高い」墓地に、19世紀のパリの裏社交界(Demi-monde/ドゥミ・モンド)の花形であったとは言え、“高級娼婦”に過ぎなかったプレシが何故このように立派な墓を持てたのでしょうか?

 オペラ《ラ・トラヴィアータ》に出てくるヴィオレッタの愛人である、ドゥフォール男爵、ガストン子爵、ドビニー公爵達には、それぞれ複数名の実在のモデルがいました。実際、プレシがノルマンディーの田舎娘から、教養と美貌を兼ね備えた女性に変貌し、自身の名前を貴族っぽくグレードアップして、”マリー・デュプレシ“と名乗っていた1840年の始め頃、彼女はマドレーヌ大通りの豪華なマンション(3LDK+サロン付)に住み、そこからほど遠くない今のギャラリー・ラファイエット百貨店の近くには、愛人のペレゴー伯爵、スタッケンベルグ伯爵、デュマ・フィスの3人が偶然とは言え、同じショセ・ダンタン通りに住んでいたのです。この中で、ドゥフォール男爵のモデルとなった人物は、年齢で言えば既に老人だったスタッケンベルグ伯爵ですが、状況から見ると若く美男子だったペレゴー伯爵だろうと思われます。あるいは、その二人ともを知っていただろうデュマ・フィスが、両人を混ぜ合わせて一つの人格にしたのかもしれません。マドレーヌ大通りのマンションはペレゴーが与えたものでしたが、ペレゴーとマリーは別れたり、また仲良くなったりの繰り返しの愛憎のドラマを繰り広げていたのです。しかし、マリーの余命がいくばくも無くなった時に、ペレゴーは彼女のたっての要望を受け入れて正式の妻とします。これで、マリーは ”コンテッセ・アルフォンシーヌ・ペレゴー”になったわけです。ところが、彼女がその地位と名称を欲しがったのは、ペレゴーと一緒になりたかったわけではなく、実は彼女の人生で、ただ一人客としてではなく、男として愛してしまった ”フランツ・リスト“ のいる ”表の社交界”にデビューするためだったのです。リストはしかし、マリーにトルコへの旅行の約束だけをして、二度と戻って来ませんでした。一方ペレゴーは騙されながらも最後には彼女を許し、その死後モンマルトル墓地に自身の費用で立派な墓を作ったのです。ですが、そこにはペレゴーの名前も伯爵家の紋章も見当たらず、生まれた時の名前、“アルフォンシーヌ・プレシ“とそのイニシャルであるA.P.が家紋のように刻まれていました。彼女が愛したのがリストであったように、ペレゴーが本当に愛したのが、アルフォンシーヌ・プレシだったのかもしれません。

 このように、「ラ・トラヴィアータ」の名前は、“アルフォンシーヌ・プレシ“から、”マリー・デュプレシ“、“アルフォンシーヌ・ペレゴー “、そして裏切られたペレゴーの怒りを買ってまた”マリー・デュプレシ“に戻り、最後は”アルフォンシーヌ“として墓に入ります。その後、デュマ・フィスの小説で、”マルグリット・ゴーチェ“としてよみがえり、ヴェルディとピア-ヴェの手によって、”ヴィオレッタ・ヴァレリー“を名乗って今もなお公演されているのです。バレエの” ラ・トラヴィアータ“、(ドイツ人ジョン・ノイマイヤー振付のため、タイトルは “Die Kameliendame”)では、”マルグリット“の名前で現在も踊られています。新国立劇場の紗幕に映った墓所には “ALPHONSINE PLESSIS”の名前が見えましたが、その和訳の画面は”マリー・デュプレシ”になっていたと思います。「おやっ?」と思われた方もいらっしゃったのでは。そのくらい、彼女の名前は実際の人生でも、その後の小説やオペラの舞台においても変わっているのです。”ラ・トラヴィアータ“という名前はヴェルディのオペラでしか使われておらず、これは当時の検閲を意識して一娼婦を悲劇のヒロインと思われない響きの「堕落した女(道を踏み外した女)」を使ったものではないかと思います。

 さて、自身の小説「La Dame Aux Camelias」の中では、”アルマン“、そしてオペラ《ラ・トラヴィアータ》では ”アルフレード”になったアレクサンドル・デュマ・フィスは、オペラのストーリーの様にマリーと会ってあっという間に恋に落ち深い仲になったようですが、その後マリーにかかる費用の大きさと、彼女に振り回されることを嫌って別れています。小説やオペラのようにドラマチックな展開になるには、彼自身は現実的に過ぎたようです。旅行案内の本やウェブサイトには、「ラ・トラヴィアータの主人公のモデルとなったプレシの墓のすぐそばには、愛人だったデュマ・フィスの墓もあります」と書いてあるケースを良く見かけますが、実際に墓地内で歩いてみると、デュマ・フィスの墓はプレシの墓のある区画から6区画離れた21区にあり、徒歩で1−2分かかります。その微妙な距離に、彼等の若くして終わった関係があらわれていると感じました。二人の亡くなった時期は48年の違いがありますが、300メートルほど離れた墓と墓の間には、デュマ・フィスが亡くなった後に出来た墓所も数多くあり、彼が望めばもっとプレシに近い場所に眠ることもできたはずです。71歳で、当時としては天命をまっとうしたデュマ・フィスの場合は、彼の家族が墓の場所を決めたとは思えません。きっと彼自身がモンマルトル墓地を訪れ、昔の恋を思い出しながら、「ここかな?いや、もう少し近く。いや、近すぎる。」などと場所を探して墓所を買ったではないかと思ってしまいました。彼の父の、アレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ)は、パリ市内のパンテオンの荘厳な霊廟にヴィクトル・ユゴーと同じ部屋に眠っているからだと思われますが、デュマ・フィスもモンマルトル墓地の中では、精一杯頑張って立派な墓所にしています。

th-th-DSC01141.jpg
デュマ・フィスの墓所

 話は五月の新国立劇場の《ラ・トラヴィアータ》に戻ります。この公演は、指揮、歌手、演出ともに素晴らしいものでしたが、そのヴァンサン・ブサールの演出では、3幕目の最後にまた紗幕が下りてきて、死に行くヴィオレッタとジェルモン親子、アンニーナ、グランヴィル医師の間を隔てます。紗幕はプレシの墓が示す生と死の世界の境をあらわし、その時点で一人紗幕のこちら側に来ているヴィオレッタはもう亡くなっているのだと思いました。そして3幕目でベッドの代わりになり、最後にはヴィオレッタを前に押し出すようにして舞台の中央に存在したグランド・ピアノは“フランツ・リスト”をあらわしていたのではないでしょうか?(実はこのピアノのことは、この公演を聴いたヴェルディ協会の複数の会員の方から聞いて、はっと気づきました。)ブサールと話す機会があれば、是非聞いてみたかったことです。

 初夏のパリで、僕は日が長いのをいいことに、何時間かプレシの墓地のあたりを散策しました。美しい墓所を見て、その雰囲気に触れてすっかり彼女に魅了されてしまったのです。そんな訳で、翌日はちょっと気分転換が必要かと考えて、大好きな映画、「男と女」(1966年封切)の撮影地になったノルマンディーの海岸沿いの保養地ドーヴィルに日帰り旅行をしました。しかし、そこへ行く列車(主人公の「女」がドーヴィルからパリへの帰りに乗った、その列車です。)の中でサウンドトラック盤の映画音楽を聴いて気づきました。「女」の名前が、”アンヌ・ゴーチェ“ なのです。まあ、そう関連づけて考えなくても良いのだろうとも思いますが、この映画では登場人物の名前にこだわりを持っていたと思われるクロード・ルルーシュ監督が、”椿の女”と同じ苗字を付けたということは気になってしまうのです。やはり僕にとってのパリはあまりにも《ラ・トラヴィアータ》の吸引力が強すぎる街のようです。また、しばらくしたらモンマルトルを訪れてみようと思います。寒いでしょうが、2月の彼女の命日に、ありきたりでしょうが、今度こそ白い椿を持って墓地の門をくぐるとしましょう。
                                       以上
<参考文献>
■「椿姫」 アレクサンドル・デュマ・フィス著、吉村正一郎訳岩波文庫 1971年
■「評伝ヴェルディ第1部あの愛を・・・」ジュゼッペ・タロッツィ著、小畑恒夫訳 草思社 1992年
■「よみがえる椿姫」 ミシュリーヌ・ブーデ著、中山眞彦訳 白水社 1995年
■「椿姫」 アレクサンドル・デュマ・フィス著、朝比奈弘治訳 新書館 1998年
■「ヴェルディのオペラ」 永竹由幸著 音楽之友社 2002年
■「パリが愛した娼婦」 鹿島茂著 角川学芸出版 2011年
■「ヴェルディ〜オペラ変革者の素顔と作品」 加藤浩子著 平凡社 2013年

                         (くさま ふみひこ)



関連記事
スポンサーサイト

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://provenzailmar.blog18.fc2.com/tb.php/564-61e3aaeb
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad